皇位継承争いを制したものの短命に終わった天皇


基本情報
- 諱(いみな): 大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと)
- 生年: 336年頃(推定)
- 在位: 400年~405年(『日本書紀』による)
- 父: 仁徳天皇(第16代天皇)
- 母: 磐之媛命(いわのひめのみこと)
- 后妃: 草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)
- 兄弟: 住吉仲皇子、瑞歯別皇子(後の反正天皇)、菟道稚郎子
- 陵墓: 百舌鳥耳原北陵(大阪府堺市)
- 崩御: 405年(諸説あり)
履中天皇は、応神天皇の孫にあたります。彼の父である仁徳天皇は、在位が長く「民のために減税を行った名君」とされていますが、その後の皇位継承では内乱が起こりました。
皇位継承争いと即位までの経緯
- 仁徳天皇の死去と兄弟の対立:
- 履中天皇の父・仁徳天皇が崩御した後、皇位継承を巡って兄弟間で争いが勃発しました。
- **履中天皇(長男)が最も有力な後継者とされたが、弟の住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)**が反発し、クーデターを起こした。
- 住吉仲皇子は軍を率いて履中天皇を攻撃し、彼は命からがら逃亡。
- 履中天皇の逃亡と反撃:
- 履中天皇は命を落としそうになりながらも、忠臣の助けを得て、しばらく潜伏していた。
- 一方、もう一人の弟・瑞歯別皇子(みずはわけのみこ)(後の反正天皇)は履中天皇と結託し、住吉仲皇子を討伐することを決意。
- 履中天皇と瑞歯別皇子の連携により、最終的に住吉仲皇子は討たれ、履中天皇が即位することとなった(400年頃)。
この出来事は、当時の皇位継承が必ずしも長子相続ではなく、軍事力や政治的支持が必要であったことを示しており、古代日本の統治構造の不安定さを反映しています。

履中天皇の治世(400年~405年)
履中天皇の在位期間はわずか5年間であり、大きな政治改革や経済政策についての記録は少ないですが、いくつかの点が注目されています。
- 内乱による政治の混乱:
- 履中天皇は即位したものの、内乱の影響で政治の安定には時間を要したと考えられます。
- そのため、即位後の政務に関する記録はほとんど残されていません。
- 住吉大社の創建(伝承):
- 一説によると、履中天皇は住吉仲皇子との戦いの後、住吉大神を祀るために「住吉大社」(大阪府)を整備したとされます。
- 住吉大社は、のちに海上交通の守護神として広く信仰されることになります。
- この伝承が事実であるかは不明ですが、履中天皇と住吉仲皇子の戦いが「住吉大社」の由来に関係している可能性は指摘されています。
- 皇位の安定と次代への影響:
- 履中天皇の治世は短命でしたが、彼の即位によって皇統が存続し、その後の**反正天皇(第18代)、允恭天皇(第19代)**へと続いていきます。
- しかし、履中天皇の死後、すぐに弟の反正天皇が即位したことから、彼の統治は盤石ではなかった可能性が高いです。
- 国史の編纂: 諸国に国史(ふみひと)を置き、国内情勢に関する報告書を編纂させたとされています。
- 蔵職の設置: 蔵職(くらのつかさ)を設け、蔵部(くらひとべ)を定めたとされています。
履中天皇の陵墓と考古学的証拠
- 百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)
- 履中天皇の陵墓とされる「百舌鳥耳原北陵(大阪府堺市)」は、日本でも3番目に大きい前方後円墳。
- 墳丘の長さ:約365m
- 築造時期:5世紀初頭
- 形状:前方後円墳
- 近隣には、仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)もある。
考古学的な発見
- 履中天皇の実在を示す直接的な考古学的証拠はまだ発見されていません。
- しかし、この時代の王権が強大であったことは、これらの巨大古墳の存在によって裏付けられています。
履中天皇の実在性と評価
✅ 実在説
- 5世紀初頭に履中天皇の時代とされる巨大前方後円墳が築造されており、ある程度の中央集権的な王権があったことは確か。
- 皇位継承争いの記録が、『日本書紀』や『古事記』に記されている点から、一定の歴史的根拠があると考えられる。
❌ 架空説
- 履中天皇の治世に関する詳細な記録がほとんどなく、彼の存在は後世に作られた可能性もある。
- 記紀の編纂(8世紀)の際に、天皇家の正統性を補強するために創作された人物かもしれない。
まとめ
履中天皇の歴史的意義
- ✅ 兄弟間の激しい皇位継承争いがあった
- ✅ 短い治世のため、大きな政治改革の記録はほとんどない
- ✅ 彼の陵墓(百舌鳥耳原北陵)は日本で3番目に大きな前方後円墳であり、王権の強さを示している
実在性の議論
- 🔹 肯定派: 古墳の存在や当時の王権の規模から、実在した可能性が高い
- 🔹 否定派: 記録が乏しく、彼の存在は後世の創作である可能性がある
履中天皇は、記録こそ少ないものの、古代日本の歴史において重要な役割を果たした天皇の一人と言えるでしょう。
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