
悲劇の天皇と日本三大怨霊の一人
崇徳天皇(すとくてんのう)は、平安時代末期に在位した第75代天皇です。わずか5歳で即位しながら、やがて皇位を巡る内乱「保元の乱」に巻き込まれ、流罪の果てに怨霊として恐れられる存在となりました。その波乱に満ちた生涯をたどります。
🧬 基本情報
項目 | 内容 |
---|---|
諱(いみな) | 顕仁(あきひと) |
在位期間 | 1123年 ~ 1142年 |
父 | 鳥羽天皇 |
母 | 藤原璋子(待賢門院) |
崩御 | 1164年(享年46歳) |
陵墓 | 白峯御陵(香川県坂出市) |
👶 即位と院政の影
崇徳天皇は1123年、わずか5歳で即位しました。これは父・鳥羽天皇の院政を実現するための措置でした。
しかし、1142年には弟・近衛天皇へ譲位し、自らは上皇(崇徳院)となります。
ところが、鳥羽上皇との関係は悪化。鳥羽は崇徳を「自分の子ではない」とまで言い切り、政治的にも冷遇しました。
⚔️ 保元の乱と流罪
1156年、鳥羽法皇が崩御すると、後継を巡る争いが表面化。崇徳上皇は藤原頼長らと手を組み、弟・後白河天皇に対抗します。
この争いが「保元の乱」です。
- 崇徳上皇側:藤原頼長、源為義ら
- 後白河天皇側:平清盛、源義朝ら
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結果は後白河側の圧勝。崇徳上皇は捕らえられ、讃岐国(現・香川県)へ流されることとなりました。
🏝️ 讃岐での孤独と絶望
讃岐に流された崇徳上皇は、都への帰還を願いながら写経を続けました。しかし、朝廷は「呪詛が込められている」として、写経を受け取ることすら拒否。
深く絶望した崇徳は、髪や爪を伸ばし「鬼」と化したような姿となったと伝えられています。
1164年、46歳でその波乱の生涯を閉じました。

👻 怨霊伝説と文化的影響
崇徳上皇の死後、都では相次ぐ災厄が起こり、人々はこれを彼の「祟り」と考えました。
- 平清盛の死
- 安徳天皇の入水(壇ノ浦の戦い)
これらも崇徳の怨霊によるとされ、彼は「日本三大怨霊(※)」の一人と数えられます。
※他は菅原道真、平将門
✍️ 崇徳天皇の人間性と業績
- 文学の才:和歌・漢詩に秀で、多くの作品を残しました。
- 武芸の達人:弓馬にも通じ、武人としての側面もありました。
しかし、政争に翻弄され、天皇としても上皇としても報われぬまま、悲劇的な末路をたどったのです。
🏯 ゆかりの地を訪ねて
- 白峯御陵(香川県坂出市)
崇徳天皇の御陵。静かに眠るその地には、今なお人々の祈りが絶えません。 - 白峯寺(香川県坂出市)
崇徳天皇を祀る寺。怨霊を鎮めるための祈りの場として創建されました。
🔍 歴史的意義
保元の乱は、日本史における大きな転換点でした。武士(平清盛・源義朝)が公然と政治に関与し始め、やがて平氏政権、鎌倉幕府へとつながっていきます。
崇徳天皇の怨霊伝説は、後世の能・歌舞伎・小説など、あらゆる芸術分野に影響を与えています。
📝 まとめ
崇徳天皇の人生は、権力闘争に巻き込まれた悲劇の象徴です。
しかし、その存在は後の日本文化に深く根付き、今もなお語り継がれています。
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