
激動の時代を生き抜いた「大天狗」
🏯 基本情報
項目 | 内容 |
---|---|
諱(いみな) | 雅仁(まさひと) |
生没年 | 1127年10月18日 ~ 1192年4月26日(享年66歳) |
在位期間 | 1155年7月23日 ~ 1158年8月6日 |
父 | 鳥羽天皇 |
母 | 藤原璋子(待賢門院) |
院号 | 後白河院 |
陵墓 | 法住寺陵(京都市東山区) |
🧒 即位の経緯と背景
後白河天皇(雅仁親王)は、本来皇位継承の順位が高くありませんでしたが、兄・近衛天皇の急逝と鳥羽法皇の死後の混乱の中で即位。
その在位はわずか3年でしたが、その後30年以上にわたる「院政」を通じて、日本史に強烈な足跡を残します。
⚔️ 保元の乱と平治の乱
- 保元の乱(1156年)
父・鳥羽法皇の死後、兄・崇徳上皇と皇位継承を巡って対立。源義朝・平清盛を従え勝利し、崇徳上皇を讃岐へ流罪。 - 平治の乱(1159年)
藤原信頼と源義朝による反乱を、平清盛の力で鎮圧。信頼処刑、義朝敗走中に殺害され、清盛の台頭を許すことに。
.png)


🏛️ 院政と平清盛の対立
- 1158年:譲位して院政を開始。
- 初期は清盛と協調関係を築くが、次第に対立を深める。
- 1179年(治承三年の政変):平清盛によって幽閉され、一時的に院政が停止される。
⚔️ 源平合戦と権力の再掌握
- 1180年:源頼朝が挙兵。後白河は武家間の対立を巧みに利用。
- 1181年:清盛の死により、後白河院が政治の表舞台に返り咲く。
- 頼朝に守護・地頭設置を認め、**事実上の鎌倉幕府成立(1185年)**を後押し。

📜 「治天の君」としての統治と文化
- 約30年にわたり「治天の君」として君臨。時の天皇や武家権力を巧みに操ったその手腕は、九条兼実に「日本国の大天狗」と呼ばれるほど。
- 和歌や芸能への関心も高く、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編纂し、今様文化を後世に伝えた。
.png)
🪦 最期とその影響
- 1192年:崩御。同年、源頼朝が正式に征夷大将軍に任命され、武家政権の幕開けが決定づけられる。
- 院政の終焉と、武士の時代の幕開けを象徴する死となった。
🧭 歴史的意義と人物像
🔹 巧みなバランス感覚
保元の乱・平治の乱・源平合戦といった政変のなかで、後白河院は敵味方を見極めながら巧みに勢力を操作。
🔹 二面性のある政治家
時には果断、時には懐柔。場面に応じて異なる顔を見せる柔軟さを持ち合わせていました。
🔹 文化を愛した知性派
政治家であると同時に、芸術の庇護者でもありました。庶民文化の象徴とも言える今様(いまよう)の普及に尽力した功績は大きい。
✍️ まとめ
後白河天皇は、平安時代末期の混沌とした政局のなかで、自らの力を最後まで保持し続けた「したたかな帝王」でした。
武士と貴族、政争と文化――そのすべてを内包した後白河の生涯は、日本の中世政治の転換点そのものであり、
まさに「最後の平安天皇」と呼ぶにふさわしい存在です。
コメントを残す