後堀河天皇(ごほりかわてんのう)

後堀河天皇(ごほりかわてんのう)

鎌倉幕府の庇護下に生まれた若き天子

🧬 基本情報

項目内容
諱(いみな)雅成(まさなり)親王
生没年建保3年(1215年)~仁治3年(1242年)〈享年28歳〉
在位期間文暦2年(1235年)~仁治3年(1242年)
土御門天皇(第83代)
藤原基子(久我家出身、藤原道家の娘)
院号後堀河院
陵墓月輪東山陵(京都市東山区)

📜即位の背景

後堀河天皇は、後高倉院の第三皇子として生まれました。承久3年(1221年)の承久の乱後、鎌倉幕府は後鳥羽上皇の皇統を嫌い、仲恭天皇を廃位しました。そこで、幕府は後鳥羽上皇の兄である守貞親王の皇子で、当時出家していなかった茂仁親王を新たな天皇として擁立しました。

⚖️治世の特徴

  • 幼少のため、父である後高倉院が院政を行いました。
  • 在位中は、承久の乱後の処理や、幕府による朝廷の監視が強化されました。  
  • 当時の政治権力は朝廷ではなく鎌倉幕府(執権:北条泰時)にありました。
  • 天皇自身が若年だったこともあり、公家社会の名目的統率者という位置づけでした。
  • 承久の乱後の再建期にあたり、朝廷の権威低下を象徴する時代でした。

崩御

貞永元年(1232年)10月4日、わずか11年在位の後、皇子の秀仁親王(後の四条天皇)に譲位されました。譲位後2年も経たない天福2年(1234年)8月6日、23歳という若さで崩御されました。

後堀河天皇の歴史的意義

後堀河天皇は「承久の乱後、幕府の意向で擁立された天皇」として知られ、朝廷が幕府の支配下に入ったことを象徴する存在です。この天皇の即位によって、後鳥羽院を中心とする旧体制(院政的支配)は終焉し、鎌倉幕府と公家社会の新たな関係の時代が始まりました。


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