
北朝第4代・文化を守り抜いた天皇
🔸 基本情報
項目 | 内容 |
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諱(いみな) | 弥仁(いやひと)親王 |
在位期間 | 1358年(延文3年)~1371年(応安4年) |
生没年 | 1338年3月23日 ~ 1374年8月12日(享年37歳) |
父 | 崇光天皇(北朝第3代) |
母 | 藤原顕子(広橋仲光の娘) |
皇統 | 持明院統(北朝) |
院号 | 後光厳院(退位後) |
陵墓 | 深草北陵(京都市伏見区) |
🧬 即位の背景と皇位継承
南北朝時代、皇統は北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)に分裂していました。後光厳天皇は当初、僧門入りする予定でしたが、正平一統の崩壊と北朝皇族の拉致事件をきっかけに、室町幕府に擁立され、神器なき即位という異例の形で皇位に就きました。
三種の神器がなかったため、かつての継体天皇の即位を前例とする形式が取られました。
⚔️ 激動の治世と政治背景
後光厳天皇の在位中、南朝軍による京都侵攻が相次ぎ、天皇は美濃や近江に避難を強いられます。政務は財政難と人材不足に悩まされ、幕府将軍・足利義詮や足利義満に主導権を握られるかたちとなりました。
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✍️ 文化活動と和歌への情熱
困難な時代ながらも、後光厳天皇は文化の振興に力を注ぎました。
📚 勅撰和歌集の編纂
集名 | 撰者 | 完成年 |
---|---|---|
『新千載和歌集』 | 二条為定 | 1359年(延文4年) |
『新拾遺集』 | 二条為明 | 1363年(貞治2年) |
二条派の歌風を採用し、持明院統の伝統を文化的にも確立しました。
👑 皇位継承と晩年
晩年、兄・崇光上皇の皇子・栄仁親王との間で皇位継承問題が勃発。しかし、最終的には自らの皇子・**緒仁親王(後の後円融天皇)**への譲位を実現させました。
1371年に譲位し、「後光厳院」として院政を敷こうとしますが、幕府の影響力の前に権力を持つことなく、1374年に崩御しました。
🪦 陵墓と記録
- 陵墓:深草北陵(京都市伏見区)
- 法名:光融
- 日記:『後光厳院御記』が伝わり、当時の朝廷の様子を伝える貴重な記録とされています。
🗺️ 系譜図(簡略)
光厳天皇(北朝初代)
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崇光天皇(第3代)
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後光厳天皇(第4代)
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後円融天皇(第5代)
📝 まとめ|文化を守りぬいた天皇
後光厳天皇は、南北朝の戦乱の中にあっても、朝儀の再興や勅撰集の編纂など文化の火を絶やさずに守った天皇でした。戦乱に翻弄されながらも、皇統の継続と文化的正統性の維持に尽力した姿勢は、後世の評価にも値します。
室町幕府の庇護の下、皇統の灯を守り、和歌文化を継承したその治世は、動乱の中における「静」の象徴とも言える存在でした。
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