
南北朝合一を実現した南朝最後の天皇
🧬 基本情報
項目 | 内容 |
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諱(いみな) | 熙成(ひろなり)親王 |
生没年 | 正平16年(1361年)頃 ~ 応永33年(1426年)8月10日 |
在位期間 | 弘和3年(1383年)~ 明徳3年(1392年) |
父 | 後村上天皇(第97代) |
皇統 | 大覚寺統(南朝) |
院号 | 後亀山院(譲位後) |
陵墓 | 嵯峨小倉陵(京都市右京区)※形式:五輪塔 |
🏯 即位と南朝の苦境
後亀山天皇は南朝の正統を継ぐ後村上天皇の皇子で、1383年、兄・長慶天皇の後を継いで即位しました。即位当時、南朝はすでに弱体化しており、対立する北朝・室町幕府との戦いは劣勢を極めていました。
⚔ 南北朝合一と「明徳の和約」
南北朝の長きにわたる内乱を終結させるため、室町幕府の第3代将軍・足利義満が調停に乗り出します。これにより、1392年に「明徳の和約」が結ばれました。
和約の主な内容:
- 三種の神器を北朝の後小松天皇へ譲渡
- 皇位は南北両統(大覚寺統・持明院統)で交互に継承(両統迭立)
- 領地の分配:国衙領は大覚寺統、長講堂領は持明院統へ
後亀山天皇は、民の平安を第一に考え、神器を携えて京都に上り譲位しました。こうして60年続いた南北朝時代は終焉を迎えました。
🧘♂️ 譲位後の晩年と「後南朝」
しかし、和約にあった両統迭立の約束は破られ、皇位は北朝(持明院統)のみによって継承されました。これに不満を抱いた後亀山上皇は、1410年に吉野へ再び下り、南朝復興の意思を示したとされます。
晩年の流れ:
- 1410年:吉野へ出奔
- 1416年:京都へ帰還
- 晩年は嵯峨の大覚寺で静かに過ごす
- 1426年:66歳前後で崩御、法名は「光剛心」
この後も、南朝の遺臣たちは「後南朝」として活動を継続し、幕府や朝廷への抵抗を続けました。
🏛 歴史的評価と正統性の復権
長らく「北朝こそが正統」とされていたものの、1911年(明治44年)、明治天皇の勅裁によって南朝が正統と再評価されました。
これにより、後亀山天皇は正式に第99代天皇として歴代天皇に数えられ、北朝の天皇(光厳・光明・崇光・後光厳・後円融など)は“非正統”とされるようになります。
🏞 関連地・陵墓情報
地名 | 内容 |
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賀名生(あのう/奈良県五條市) | 後南朝の拠点。「賀名生皇居跡」が現存 |
阿倍野陵(大阪市) | 旧来の伝承上の陵墓地 |
嵯峨小倉陵(京都市右京区) | 現在の宮内庁指定陵墓。五輪塔形式 |
🔍 まとめ
後亀山天皇は、南北朝動乱の終息を図るべく、自らの皇位を手放す決断をした稀有な天皇です。
その決断は、歴史的に「民を想う天皇像」として高く評価され、明治以降の歴史認識にも大きな影響を与えました。
🌸「正統とは何か」を問い続けた南北朝時代。その幕を下ろしたのが、後亀山天皇の静かな決断だったのです。
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