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鎌倉政権を支えた文武両道の文化人
📜 基本情報
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 北条時広(ほうじょう ときひろ) |
生没年 | 貞応元年(1222年)~建治元年6月25日(1275年) |
家系 | 北条氏一門・時村流 |
父 | 北条時村(北条時房の次男) |
養父 | 北条時房(祖父) |
妻 | 北条資時の娘 |
子女 | 娘2人(北条宣時・渋川義春に嫁ぐ)、男子なし |
後継者 | 甥・北条宗房(兄・時隆の子) |
🧬 家系と育成背景
北条時広は、連署・北条時房の孫として生まれました。父・時村は承久の乱(1221年)の翌年に出家し、早くに世を去ったため、祖父の時房に養育されました。この縁により、時房の血統を継ぐ「時村流」の祖として幕府内に確固たる地位を築いていきます。
🛡️ 幕府における政務と昇進
北条時広の経歴は、政務の中枢に長く携わるものでした。彼の主な官歴は以下の通りです。
🗂 主な経歴
- 1245年(寛元3):式部少丞に任官
- 1247年(宝治元):従五位下・武蔵権守
- 1258年(正嘉2):越前守
- 1264年(文永元):幕府の引付衆に就任
- 1265年(文永2):評定衆・従五位上に昇進
- 1269年(文永6):四番引付頭人を兼任
とりわけ、引付衆・評定衆・引付頭人という三大実務ポストを兼ねたことは、当時の幕府において非常に重要な役割を担っていたことを示します。
🎴 文化人・歌人としての側面
政治家としてだけではなく、時広のもう一つの顔は和歌の才能に秀でた文化人です。
- 将軍の歌席寄人に任命される
- 歌仙結番に選ばれた名誉ある歌人
- 自選歌集『越前前司平時広集』
- 勅撰集『続古今和歌集』などにも入集
和歌を通じて公家文化と交わり、武士としては珍しく高い文芸的教養を身につけていました。北条家の中でも特に「風流人」として称賛されています。
🧾 晩年と家督継承
1275年6月25日、北条時広は54歳で没します。男子に恵まれず、家督は甥の北条宗房が継承。これにより「時村流」は引き続き存続しました。
🔍 評価と歴史的意義
北条時広は、得宗家のような圧倒的権力は持ちませんでしたが、幕府の実務・文化の両面でバランス良く貢献した人物です。
✅ 「実務型エリート」かつ「文化武士」
✅ 中枢政務・和歌・人脈の三拍子そろった北条家中堅の代表格
時広のような存在が、鎌倉幕府の制度的基盤を支え、後の室町時代以降の武家文化へと繋がっていく礎を築いたといえるでしょう。
📚 参考資料
- 『吾妻鏡』
- 『尊卑分脈』
- 『鎌倉時代人物事典』(吉川弘文館)
- 『鎌倉幕府の中枢人脈とその系譜』(歴史学研究論集)
- NHK大河ドラマ『北条時宗』資料(2001年放映/演:石橋蓮司)
🌸 北条時広の小ネタ・豆知識集
🪷【小ネタ①】「越前守」なのに越前には一度も赴任していない?
時広は官位として「越前守」に任命されていますが、実際に越前国(現在の福井県)に赴任した記録はありません。当時の中・下級貴族や幕臣にとって、地方官職は「名誉職」扱いになることが多く、実質は「名乗るだけ」のケースがしばしばでした。
➡ つまり、「越前守」は出世コース上の肩書きのようなものだった可能性があります。
🎴【小ネタ②】勅撰和歌集に選ばれた北条家一門の数少ない歌人
鎌倉武士で勅撰和歌集に歌が収められた人物はごく限られています。時広はその一人で、「続古今和歌集」などに入集しています。
➡ これは、公家社会からもその教養が認められた証拠であり、北条一門でも異色の存在でした。
🏛️【小ネタ③】将軍の「歌会」に呼ばれる武士は超エリート
「歌席寄人(うたせきよりうど)」とは、将軍が主催する和歌会に招かれる精鋭たちのこと。時広がこれに選ばれていたという事実は、彼が単なる官僚ではなく、文化的サロンのメンバーだったことを示しています。
➡ 将軍の趣味=権威。その側近として呼ばれるのは一種の「文化的ステータス」。
📚【小ネタ④】自選和歌集の題名がやたら正式
彼の歌集のタイトルは「越前前司平時広集(えちぜんのぜんじ・たいらのときひろしゅう)」。
これは、
- 越前守 → 退任して「前司」
- 平氏 → 北条氏の本姓
- 時広 → 自身の名
というように、**格式と公的身分をあえて全体に盛り込んだ非常に”お堅いタイトル”**です。
➡ 教養を大事にする姿勢がにじみ出ています。
🎭【小ネタ⑤】2001年のNHK大河ドラマ『北条時宗』で登場!
石橋蓮司氏が演じた北条時広は、大河ドラマ『北条時宗』(2001年)にも登場。政治の重鎮として、物腰柔らかで知性的な人物像として描かれています。
➡「実直な策士タイプ」の北条氏の中でも、時広は“文化型ブレーン”として異彩を放っていた演出。
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