-1-683x1024.png)
奥州の命運を握った戦国大名!~津軽との因縁と盛岡城築城の裏側~
👤 基本プロフィール
項目 | 内容 |
---|---|
生年没年 | 1546年(天文15年)~1599年7月4日(慶長4年) |
出身地 | 陸奥国糠部郡(三戸城、現・青森県三戸町) |
実父 | 石川高信(南部氏の支流) |
養父 | 南部晴政(南部氏第24代当主) |
官位 | 従五位下・侍従、左京大夫 |
居城 | 三戸城 → 盛岡城(築城開始のみ) |
子 | 南部利直(盛岡藩初代藩主) |
🏹 信直の波乱万丈な生涯
❶ 家督相続を巡る「三戸騒動」
信直はもともと石川氏出身で、南部晴政の娘婿となって南部家へ。
当初は家督を継ぐ予定でしたが、晴政に実子・晴継が生まれたことで廃嫡。しかし晴継が早世したため、再び跡目争いが勃発。これがいわゆる「三戸騒動」です。
結果として信直は、家中の有力家臣の支持を受けて第26代南部氏当主に就任。これが後の「九戸政実の乱」の遠因にもなります。
❷ 奥州仕置で豊臣政権に恭順
1590年、小田原征伐に呼応して豊臣秀吉に即座に恭順。
多くの大名が動揺する中でのこの判断により、南部領は安堵され、約10万石の大名として南部氏は公認されました。
まさに「情勢を読む目」に長けた戦国武将でした。

❸ 津軽為信との因縁
信直最大のライバルが津軽為信。元は南部家の家臣でしたが、独立して津軽地方を掌握。
信直は何度も豊臣政権に「津軽氏を認めるな」と直訴するも、認められず断念。
この確執は江戸時代に入っても南部・津軽両藩の宿敵関係として続いていきます。
-1-683x1024.png)
❹ 盛岡城の築城計画
信直は晩年、内陸の盛岡に新城の建設を開始。**風水思想に基づき、「北上川と中津川の合流点」**という立地を選びました。
築城は息子・利直が引き継ぎ、盛岡藩としての基礎を築きます。
🗺️ 代表的な事件・功績まとめ
年代 | 出来事 | 内容 |
---|---|---|
1576年頃 | 晴政の死後、跡目争い | 晴継早世で家督争い勃発(=三戸騒動) |
1582年 | 南部氏当主として確立 | 津軽為信の独立開始と対立激化 |
1590年 | 小田原征伐に参陣 | 豊臣秀吉に従い、領地安堵 |
1591年 | 九戸政実の乱鎮圧 | 家中の統一を図る |
晩年 | 盛岡城築城開始 | 近世大名への布石となる政策 |
✨ 小ネタ・逸話集
🔄 「裏切り者」と言われた?
南部家の本家筋ではない信直が家督を継いだことで、一部には「宗家の乗っ取り」と見る者もいました。
しかし、実際には家臣の支持を受けての正当な継承とされ、戦国の混乱の中で生き残るための現実的選択でした。
🔥 津軽氏への強い警戒心
信直は生涯を通して津軽為信を「謀反人」と見なしており、豊臣政権や後の徳川政権に度々訴状を提出しています。
一方、為信は外交手腕に長け、京都に頻繁に出仕して中央からの承認を得ており、南部氏は後れを取った形です。
🍶 家臣に禁酒令!
家臣団の規律を重んじた信直は、「夜間の無断飲酒・博打の禁止」を命じたとされます。
これは津軽との内戦を警戒した防衛意識の一環とも言われています。
📜 まとめ:奥州の秩序を築いた名将
南部信直は、戦国時代の奥州において、複雑な内外の問題を一つずつ解決していきました。
ときには強硬に、ときには慎重に――そのバランス感覚は見事であり、彼がいたからこそ南部氏は江戸時代まで存続できたと言っても過言ではありません。
まさに、**「奥州の切り札」**とも言える存在です。
コメントを残す