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盛岡藩の礎を築いた名君「南部利直」~戦国の終わりを乗り越えた智将
◆ 基本情報
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 南部 利直(なんぶ としなお) |
生没年 | 1576年(天正4年)~1632年12月1日(寛永9年) |
出身地 | 陸奥国糠部(現・青森県〜岩手県) |
父 | 南部信直(南部氏第25代当主) |
官位 | 従四位下・侍従、左京大夫、陸奥守 |
居城 | 盛岡城(不来方城) |
通称 | 三郎、侍従殿 |
◆ 南部利直の生涯と功績
🔹 ❶ 若き当主として登場
1599年、父・南部信直の死去により23歳で南部家第26代当主に就任。豊臣政権下で大名としての地位を得ていた南部家の舵を引き継ぎます。
🔹 ❷ 関ヶ原の戦いと徳川政権への忠誠
1600年、関ヶ原の戦いでは徳川家康に忠誠を誓い、実戦には加わらなかったものの会津征伐への協力姿勢を示します。この結果、南部氏は所領を安堵され、正式に「盛岡藩10万石」が成立しました。
🔹 ❸ 盛岡城と城下町の整備
利直は、父が着手していた「盛岡城(不来方城)」の築城を完成させ、1615年に三戸から本拠を移します。あわせて、計画的な城下町建設・寺院配置・道路整備など都市づくりに尽力しました。
🔹 ❹ 藩政の確立と経済強化
藩内の反乱を鎮圧し、家臣団の統制を強化。鉱山開発(白根金山・西道金山)や漆資源の保護など経済政策にも着手し、藩の財政基盤を築きました。
🔹 ❺ 大坂の陣への参陣
1614年、大坂冬の陣にも参戦。徳川幕府への忠誠を再確認させることで、南部氏の将来の安泰を確かなものとしました。
◆ 南部利直にまつわる逸話・小ネタ集
🎴 ❶ 将軍家光も一目置いた?
将軍・徳川家光の若き将軍としての振る舞いに感銘を受け、「この若将軍なら安心だ」と語ったというエピソードが残っています。
🐅 ❷ 盛岡城に“虎”がいた?
徳川家康から虎を拝領し、盛岡城内で飼っていたという記録があります。餌には鳥獣や罪人を用いたとされ、当時の権威誇示の一端がうかがえます。
🎯 ❸ 偽南部一族の弓矢事件
大坂の陣で「南部十左衛門信景」と刻まれた矢を敵が使用。幕府から謀反の疑いをかけられた利直は「彼は勝手に名乗っている」と釈明し、無事に信頼を保ちました。
🌳 ❹ 漆の木を守れ!
漆の木の採取には厳しい規則を定め、過剰な採取を禁じ、持続可能な利用を重視。資源保護に対する先進的な考えも見せていました。

◆ 最期と後世への影響
1632年、江戸の桜田屋敷で病没。享年57歳。法名は「大光院殿前侍従従四位下南昌日光大居士」。
三男・南部重直が家督を継ぎますが、後に男子断絶により盛岡藩は一時分裂。しかし、利直の築いた制度や城下町は、盛岡藩の中核として江戸時代を通じて受け継がれていきます。
📝 まとめ:南部利直は盛岡藩の「礎」
南部利直は、戦国の終焉と徳川の天下統一という歴史の大転換期において、南部家を安定させ、盛岡藩を確立した名君です。
- 盛岡城の完成
- 城下町の創設
- 幕府への忠誠
- 財政政策と家臣団統制
そのすべてが、南部家と盛岡の「近世のはじまり」を象徴する功績といえるでしょう。
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