
激動の時代を生きた松前藩主:松前矩広の生涯と知られざるエピソード
📜 基本情報
項目 | 内容 |
---|---|
氏名 | 松前矩広(まつまえ のりひろ) |
生没年 | 万治2年(1659年)~享保6年(1721年) |
官位 | 従五位下 志摩守 |
治世 | 寛文5年(1665年)~享保5年(1720年) |
墓所 | 法憧寺(北海道松前郡松前町) |
🌱 幼くして藩主に就任
矩広は7歳のとき、父・松前高広の死去により松前藩主となりました。幼少のため、当初の藩政は家老や一門によって執り行われます。
しかしその背景では、有力家臣同士の権力争いが絶えず、幕府から「松前家の仕置がよろしくない」と警告されるほどの混乱も起きていました。
⚔️ シャクシャインの戦い(1669年)
矩広がわずか10歳のとき、アイヌ民族の首長シャクシャインによる大規模蜂起が発生。これが「シャクシャインの戦い」です。
当主として直接指揮を執れなかった矩広に代わり、大叔父・松前泰広らが幕府の援軍とともに鎮圧を行いました。
この戦いの背景には、「アイヌ交易の不公平な制度」や、「鮭の束のごまかし」などが存在していたとされます。

💰 財政難と大名昇格
江戸時代、松前藩は他の藩と異なり、石高ではなく交易収入で成り立っていました。しかし砂金の枯渇やアイヌとの摩擦の影響で、藩の財政は徐々に悪化していきます。
そんな中、矩広の晩年――**享保4年(1719年)にはついに松前氏が1万石の大名に昇格。**これにより、名実ともに「松前藩」が成立しました。
👨👦 養子を迎えて家督を継承
享保元年(1716年)、嫡子に先立たれた矩広は、親族である松前本広の六男・邦広を養子に迎え、後継者としました。
翌享保5年(1720年)に隠居し、1年後に死去。治世55年という、異例の長期在位を終えました。
🔍 小ネタ・伝承
🎨 ① 芸術を愛した文化人藩主
矩広は書画や和歌に通じており、藩主でありながら文化人としての一面も持っていました。
🌀 ② 闇夜の井戸伝説
松前城に伝わる話。矩広の側室「松枝」が不義を疑われ、敵対派閥に讒言されてしまいます。怒った矩広は松枝と、その相手とされた僧侶を井戸に沈めて殺害したと伝えられています。この井戸は「闇夜の井戸」として今も残ります。
🦻 ③ 耳塚の伝承
シャクシャイン討伐の際、松前軍が討ち取ったアイヌの耳を埋めた塚が「耳塚」として松前城近くに存在します。和睦を装った謀殺とされ、和人とアイヌの緊張関係の象徴ともいえる存在です。
📚 ④ 教科書にも登場
教科書や副読本では、正装でアイヌ首長を迎える矩広の姿が描かれ、初期の和人・アイヌ関係における“表向きの礼儀”が強調されています。
✅ まとめ
松前矩広は、蝦夷地という特殊な領土を治め、和人とアイヌのはざまに立たされた存在でした。
一方で、大名昇格という大きな成果を挙げた藩主でもあり、芸術を愛する文化人の顔も持っていました。
しかし、藩内の混乱や暗い逸話も多く、「明と暗」を併せ持つ松前藩中興の人物として記憶される存在です。
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