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戦国を駆け抜けた智勇の武将
仁賀保挙誠(にかほ きよしげ)の生涯と逸話
戦国末期から江戸初期にかけて、出羽国(現在の秋田県にかほ市周辺)で活躍した名将がいます。その名は仁賀保挙誠(きよしげ)。由利十二頭の筆頭にして、仁賀保氏中興の祖とされる武将です。
本記事では、彼の波乱に満ちた生涯と、数々の逸話をご紹介します。
🛡️ 基本プロフィール
- 誕生:永禄3年(1560〜1561年頃)
- 本名:光誠(みつしげ)
- 改名:のちに「挙誠(きよしげ/たかのぶ)」と称される
- 死没:寛永2年(1625年)、享年64歳
- 居城:出羽国仁賀保(現在の秋田県にかほ市)
📜 出自と家督継承
仁賀保氏は、清和源氏・小笠原流の大井氏から分かれた由緒ある家系。挙誠は、赤尾津氏の出身でしたが、仁賀保氏の養子となり6代目当主を継ぎます。
戦国当時の仁賀保氏は弱体化していましたが、挙誠の登場によって再び勢力を強め、「由利十二党」の筆頭として地域の支配力を確固たるものにします。
⚔️ 豊臣・徳川への仕官と戦功
豊臣秀吉への仕官
小田原征伐(1590年)や文禄の役(朝鮮出兵)に従軍。肥前名護屋城に出陣した記録が残されています。
関ヶ原の戦いと菅野城攻略
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍(徳川方)に属し、上杉景勝の支城・菅野城(山形県)を攻め落とすという大功を挙げます。これにより、徳川家康の信任を得ました。
大名としての再興
一時期、常陸国武田で5000石の旗本にとどまっていましたが、関ヶ原での功績が再評価され、元和9年(1623年)には旧領・出羽仁賀保1万石にて大名として復帰。これは、幕臣・土井利勝が推挙したことによるものでした。
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🧩 小ネタ・逸話集
📛 名前の読み方いろいろ
「挙誠」の読みは文献によって異なり、「たかのぶ」「きよしげ」「かつとし」など複数の説が存在。実際の文書には「光誠(みつしげ)」の名が多く見られます。
これは、息子・誠政が将軍・徳川家光の「光」を避けて改名したことに由来します。
🛡️ 家紋の秘密
仁賀保氏は「箱一文字に三つ星」や「松葉菱」など、特徴的な家紋を用いました。これは大井氏直系であることを示すもので、大江氏との混同を避ける工夫でもあったと言われます。
📝 戦場の和歌
先祖・仁賀保重挙が矢島氏との合戦中、敵将と和歌を詠み交わしたという逸話が残されています。
「矢島殿 今朝の姿は百合の花」
「手をかざしたる子吉原」
戦場でのやり取りとしては非常に珍しく、当時の武士の教養や風流さがうかがえる話です。
🏯 晩年と遺産
晩年は仁賀保の地で過ごし、寛永2年(1625年)に没。
墓所は現在の秋田県にかほ市内の禅林寺、院内地区、象潟の蚶満寺などに点在します。
仁賀保氏はその後も明治期まで地元に根付いた家系として存続。現在の「にかほ市」という地名も、仁賀保氏に由来すると言われています。
✨ おわりに:智勇の名将、仁賀保挙誠
戦国の混乱期を巧みに生き抜き、家を再興させた仁賀保挙誠。
その柔軟な政治力と確かな武勇、そして和歌を詠むような教養ある人柄は、まさに「武士の鑑」といえるでしょう。
名前の読み方の多様さや家紋の由来など、今なお謎を残す部分も多く、研究家からも注目される存在です。
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