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🐯 独眼竜の猛将にして、時に離反した男:伊達成実とは?
伊達成実は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、**伊達政宗の従兄弟(いとこ)**にあたります。若き政宗と共に数々の戦場を駆け巡り、その豪胆な武勇と知略で伊達家の勢力拡大に大きく貢献しました。しかし、政宗との深い信頼関係の裏で、幾度か確執や離反を経験するなど、その生涯は非常にドラマチックです。
📜 伊達成実の基本情報
- 生没年: 永禄11年(1568年)生まれ、寛永18年6月25日(1641年8月1日)没。享年74歳。
- 家系: 父は伊達実元(伊達稙宗の三男)。母は伊達晴宗の娘(政宗の叔母)。政宗とは父方・母方ともに縁戚関係にある従兄弟です。
- 通称・官位: 陸奥守。小苗代城主、後に亘理城主。
- 子: 宗実、定実(養子)など。
⚔️ 生涯と主な功績:政宗を支えた猛将の道
成実は、伊達政宗の幼少期からの側近であり、常に最前線で伊達軍を率いた猛将として知られています。
- 若き政宗の片腕として: 政宗が家督を継いだ当初から、その軍事的才能を存分に発揮。わずか18歳で初陣を飾り、政宗の勢力拡大期には常に主力として活躍しました。特に「鬼庭左月(おににわ さげつ)」と共に、伊達家の両翼を担う存在でした。
- 人取橋の戦い(1585年)での奮戦: 父・輝宗を失った政宗が、佐竹・蘆名連合軍と激突した「人取橋の戦い」では、決死の覚悟で殿(しんがり)を務め、政宗の危機を救いました。この戦での彼の奮戦は、政宗の命を救うだけでなく、伊達家の崩壊を防ぐ上で極めて重要な役割を果たしました。
- 摺上原の戦い(1589年)での活躍: 蘆名氏との天下分け目の戦いとなった「摺上原の戦い」でも、先鋒として敵陣を突破し、伊達軍の勝利に大きく貢献。この勝利により、政宗は奥州のほぼ全域を支配下に置くことに成功しました。
- 文禄の役(朝鮮出兵)への参陣: 豊臣秀吉による朝鮮出兵にも従軍。その際、政宗の代理として活躍し、朝鮮の地でもその武名を轟かせました。
- 関ヶ原の戦いと大坂の陣での活躍: 徳川家康が天下を取る動きを見せると、政宗と共に家康に味方し、関ヶ原の戦いでは東軍として活躍。その後の大坂の陣(冬・夏)でも、伊達軍の主力として参戦し、その武勇を天下に示しました。特に大坂夏の陣では、真田幸村隊との激戦をくぐり抜け、功績を挙げました。
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💥 波乱の人間関係:政宗との確執と復帰
成実の生涯を語る上で欠かせないのが、主君・政宗との複雑な関係です。
- 一度目の出奔(1595年頃): 豊臣秀吉による天下統一が進み、伊達家が大きく領地を削減された頃、成実は突如として伊達家を出奔します。これには諸説あり、自身の所領削減への不満、あるいは秀吉の圧力による政宗との関係悪化、更には秀吉の「御伽衆(おとぎしゅう)」として召し抱えられそうになったのを嫌ったためとも言われています。彼は蒲生氏郷の元へ身を寄せたり、高野山に隠棲したりするなど、数年間浪人生活を送りました。
- 政宗による帰参要請: 成実の出奔は、政宗にとって大きな痛手でした。彼の武勇と智略は伊達家にとって不可欠だったからです。政宗は何度も成実に帰参を促しましたが、成実はなかなか応じませんでした。
- 二度目の出奔と帰参(1599年): 秀吉の死後、再び政宗の元へ帰参しますが、またもや何らかの理由で出奔します。しかし、徳川家康の仲介もあり、ようやく本格的に伊達家へ復帰しました。この度重なる出奔と帰参の経緯は、政宗と成実の深い絆と、同時に強すぎる個性がぶつかり合った複雑な関係性を示しています。
- 晩年の活躍と逝去: 復帰後は、再び政宗の重臣として活躍。特に、病床に伏せることが多くなった晩年の政宗を補佐し、仙台藩の基盤を磐石なものにする上で重要な役割を果たしました。政宗の死後も、二代藩主・xxを支え、1641年に74歳でその生涯を閉じました。


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🧩 小ネタ・逸話集
- 「戦国最強クラスの猛将」の評価: 成実は、その武勇と豪胆さから、戦国時代の武将の中でも「最強クラス」と評されることがあります。常に最前線で敵を蹴散らし、伊達軍の勝利に貢献した彼の武功は、数多くの軍記物で語られています。
- 「虎」と「龍」の絆: 政宗を「龍」に例えるなら、成実はまさに「虎」のような存在でした。政宗の傍らにあって、その武威を増幅させる役割を担っていたと言えます。政宗と成実のコンビは、伊達家の強さを象徴するものでした。🐯🐲
- 秀吉・家康も欲しがった男: 片倉小十郎景綱と同様に、伊達成実もその才能を天下人から高く評価されていました。秀吉や家康が彼を召し抱えようとした、あるいはその存在を警戒していたという話も残っています。
- 子孫の活躍: 成実の子孫は、伊達一門の筆頭家老として、仙台藩で重きをなし続けました。特に、彼が晩年を過ごした**亘理(わたり)**の地は、代々伊達成実系片倉氏の所領として、明治維新まで続きます。
🌳 系譜チャート(簡略)
稙宗(14代) ─ 伊達実元(成実の父) 伊達実元 ─ 伊達成実(1568年生)
伊達成実は、主君・政宗と共に奥州を駆け巡り、数々の武功を挙げた「猛将」であり、伊達家の勢力拡大に欠かせない存在でした。その一方で、時に離反し、再び帰参するという、人間味あふれる一面も持ち合わせていました。
政宗との複雑な関係性を含め、成実の生涯はまさに戦国時代の武将の生き様を体現しています。彼の存在なくして、独眼竜・伊達政宗の歴史は語れないでしょう。
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