伊達 政宗(だてまさむめ)

伊達 政宗(だてまさむめ)

🏯 基本プロフィール

項目内容
名前伊達 政宗(だて まさむね)
幼名梵天丸(ぼんてんまる)
生没年永禄10年(1567年)~寛永13年(1636年)享年70歳
出身出羽国米沢(現・山形県米沢市)
伊達輝宗(第16代当主)
義姫(最上義守の娘)
正室愛姫(田村清顕の娘)
子女伊達忠宗(仙台藩主)、伊達秀宗(宇和島藩主)、五郎八姫(松平忠輝室)など
官位従三位・陸奥守・右近衛権中将など
居城米沢城 → 岩出山城 → 仙台城
仙台藩(初代藩主/62万石)

⚔️ 激動の生涯と功績

● 幼少期と家督相続

政宗は天然痘で右目を失い、後に「独眼竜」と呼ばれる。
1584年、17歳で家督を継ぎ、父・輝宗の遺志を継いで奥州統一へ乗り出す。

● 父の死と初陣の苛烈さ

二本松義継に拉致された父・輝宗を、やむなく討ち取った悲劇的事件(天正13年)。
直後の戦で二本松勢を撃破し、若くして名を挙げる。

● 奥州制圧と秀吉への服従

福島・宮城・山形など南奥の大名を次々に制圧。
1589年、豊臣秀吉の奥州仕置で臣従。小田原征伐に死装束で参陣し、本領を安堵される。

● 徳川家康との関係と仙台藩創設

関ヶ原の戦いでは東軍側に立つが、主戦場には間に合わず。
それでも家康に取り入って所領を維持。1601年、仙台城を築き、仙台藩62万石の礎を築いた。


💡 政宗を語るうえで欠かせない逸話・小ネタ

🌕 「独眼竜」の名の由来

隻眼でありながら堂々と生きたその姿から、「独眼竜」の異名が生まれる。
中国の隻眼の将・李克用に由来するとされる。

👘 死装束と五色陣羽織

小田原参陣時、秀吉の怒りを和らげるため「白装束」で出陣。
その上に派手な五色の陣羽織を羽織り、「死ぬ覚悟と華美を同時に見せる」大胆な演出で許された。

🍵 文化人としての顔

茶の湯、書、料理などにも精通。
特に料理好きで、味噌・豆腐の製法を奨励し、仙台の食文化発展に貢献。

🚢 慶長遣欧使節の派遣

1613年、家臣・支倉常長をスペイン・ローマへ派遣。西洋との貿易・布教交渉を試みる。
帰国後は失敗に終わるが、当時としては異例のグローバルな試み。

支倉 常長(はせくら つねなが)

🥷 毒殺説と最期の謎

政宗は胃がんで死去とされるが、家光に毒殺されたという説も残る。
それだけ政宗が幕府内でも影響力を持っていたことの裏返しとも。


🗣️ 政宗の名言

「仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂いとなる。智に過ぐれば嘘をつく。信に過ぐれば損をする。」

人の徳は過ぎれば毒になる――バランスと実利を重んじた政宗らしい言葉です。


🌳 伊達家の系譜(簡略)

稙宗(14代)
  ↓
晴宗(15代)
  ↓
輝宗(16代)
  ↓
政宗(17代)
  ↓
忠宗(仙台藩第2代藩主)


✍️ 締めくくり

伊達政宗――
それは、剛毅と知略、文化と野心、忠誠と反骨が同居する希代の武将。
戦国という時代の荒波を巧みに乗りこなし、伊達家を近世大名として確立させた名将の姿は、今なお多くの人々を惹きつけてやみません。


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