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激動の南北朝を駆け抜けた武将の生涯
. 結城宗広の基本情報と家系
- 名前: 結城 宗広(ゆうき むねひろ)
- 生没年: 不詳(一般的に1290年頃~1338年頃とされています)
- 出自: 鎌倉幕府創設に貢献した名門・結城氏の分家、白河結城氏の2代目当主です。
- 拠点: 下総国(現在の茨城県)の結城氏から分かれ、陸奥国白河庄(現在の福島県白河市)を拠点としました。
彼の父である結城朝光は、源頼朝に仕えた忠臣として知られ、その武名は広く知られていました。宗広もまた「父の武名に恥じぬように」と常に意識していたと言われています。


2. 激動の生涯:後醍醐天皇への忠義
宗広はもともと鎌倉幕府に仕えていましたが、元弘の乱(1331年)で後醍醐天皇が討幕の兵を挙げると、天皇の呼びかけに応じ南朝方につきます。新田義貞らとともに鎌倉幕府を滅ぼすのに大きな貢献を果たしました。
建武の新政が始まると、宗広は朝廷の重鎮である**北畠顕家(きたばたけ あきいえ)**とともに陸奥国(東北地方)の統治を任されます。 しかし、足利尊氏が朝廷に反旗を翻すと、顕家の軍勢の中心として尊氏と戦うことになります。 宗広は顕家に付き従って京都を奪還し、尊氏を九州まで追い落とすなどの目覚ましい戦功を挙げました。


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3. 『太平記』に伝わる壮絶な最期と逸話
宗広は、伊勢国(現在の三重県)で病に倒れ、生涯を閉じます。 その最期は、軍記物語**『太平記』**に壮絶なエピソードとして記されています。
- 執念の遺言: 宗広は死に際し、「朝敵(足利尊氏)を滅ぼすことができなかった無念は、来世まで妄執となるだろう。私の供養は無用だ。ただ朝敵の首を捕らえて、墓前に並べて見せてほしい」と遺言したと伝えられています。
- 「十悪五逆重障過極の悪人」?: 『太平記』では、宗広は「極悪人」として描かれ、「常に死人の首を見ないと気が晴れない」と言って、毎日首を斬らせては目の前に置かせたという、恐ろしい逸話が紹介されています。 この描写がどこまで事実かは不明ですが、彼がいかに激しい時代を生きた武将であったかを物語っています。
ちなみに、宗広の死後、家督を継いだ息子の**結城 親朝(ゆうき ちかとも)**は、父の遺言とは異なり、丁寧に供養を行ったと伝えられています。 親朝はその後、時代の流れを見極めて足利尊氏(北朝)に味方し、戦乱を生き延びて白河結城氏を存続させました。
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結城宗広は、南朝への忠義を貫いた武将として、現代にその名を残しています。 『太平記』の描く人物像は、彼がどれほど強烈な個性を持っていたかを示すものかもしれません。彼の墓所は、三重県や福島県など複数に存在し、その激動の人生を今に伝えています。
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