江口 光清(えぐち あききよ)

江口 光清(えぐち あききよ)

畑谷城に散った最上義光の忠臣

基本情報・略歴

項目内容
名前江口 光清(えぐち あききよ)
通称五兵衛(ごへえ/ごひょう)
生年不詳
死没慶長5年9月13日(1600年10月19日)
主君最上義光(出羽国・山形城主)
居城畑谷城(山形県山辺町)

江口光清は、安土桃山時代から江戸初期にかけての最上氏の家臣
慶長5年(1600年)の「慶長出羽合戦(奥羽の関ヶ原)」において、畑谷城で徹底抗戦し壮絶な最期を遂げた忠義の武将として知られています。


■出自と前半生

光清の出自は不明ながら、文禄年間(1592年頃)から最上義光の家臣として活動していた記録が見られます。
その忠実さと教養から、義光の側近的立場にあったとされます。

また、光清は単なる戦人ではなく、連歌(れんが)に通じた文化人でもありました。
文禄2年(1593年)には最上義光の主催する連歌会に参加し、

「一群の竹の林の暮れわたり」
「霞めるままにすだれをぞ巻く」

といった句を残したと伝わります。
このことからも、光清が武勇と教養の両面を兼ね備えた人物であったことがわかります。


■畑谷城防衛戦 〜命を賭して守った忠義の城〜

背景

慶長5年(1600年)、全国が東軍(徳川家康)と西軍(石田三成)に分かれて戦った関ヶ原の戦い。
東北でも、上杉景勝の家臣・直江兼続が最上領へ侵攻を開始しました。

このとき、最上義光の防衛拠点の一つが「畑谷城(はたやじょう)」でした。

光清の決断

最上義光は被害を最小限にするため、畑谷城の明け渡しを命じます。
しかし、光清はこれを拒否。

「城を明け渡すは武士の恥」

として、わずか300名の兵で直江兼続率いる約2万の大軍に立ち向かう決意をします。

壮絶な最期

9月13日、上杉軍が畑谷城を包囲。
光清は南の鵜川を堰き止めて水堀を築き、必死に抵抗しました。

激戦はおよそ4時間。
ついに城は陥落し、光清は念仏壇の前で自害したと伝えられます。

落城後、畑谷城の将兵は皆討ち死に。
上杉軍は「撫で斬り」を命じ、首500余りを挙げたとも記録されています。


■子孫と伝承

戦火の最中、光清は家族を城外へ逃がしたとも言われています。
その子女たちは小滝街道沿いを逃れ、山形県内各地に潜伏。
一部の家系は、現在も「江口家の末裔」として伝わっているそうです。

また、山辺町の「長松寺」には光清の墓があり、
戒名は「清浄院殿江月秋公大居士」。
毎年9月13日には供養の灯籠流しが行われ、
地元では今も**“忠義の武士”として敬われ続けています。**


■小ネタ・逸話

  • 💬 「武士の恥」発言は実録として伝わる名言。
     義光の命令よりも「武士の誇り」を選んだ姿勢は、後世の人々に深い感銘を与えています。
  • 📖 最上義光も涙した忠臣。
     義光は畑谷城陥落の報を受け、「光清の忠義は後世まで伝えよ」と語ったといわれます。
  • 🏯 畑谷城跡は今も残る。
     山辺町畑谷の山中に遺構(曲輪・空堀・堀切)が残り、
     「江口光清碑」も建立。戦国ファンの訪問地として人気です。
  • 🪶 詩人のような武士。
     戦国の荒波にありながら、月や竹を詠む繊細な心。
     戦場に散った“文化人武将”として、異彩を放ちます。

■まとめ

江口光清は、
忠義に生き、文化に生きた最後の戦国武士」ともいえる存在。

わずか300の兵で巨万の上杉軍に立ち向かい、
最後まで義を貫いたその姿は、まさに**“出羽の忠臣”**として語り継がれています。

「武士の誇りは、命よりも重い。」

その信念を胸に散った江口光清。
山辺町・畑谷の風は、今も彼の魂を静かに伝えています。



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