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独眼竜政宗を支えた「右目」の智将
📘 基本情報
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 片倉 景綱(かげつな) |
通称 | 小十郎(代々の家督名) |
生没年 | 永禄8年(1565年)〜慶長19年(1614年) |
出身地 | 出羽国(現在の山形県) |
父 | 片倉景重(伊達家の家臣) |
官位 | 伊予守・備中守 |
主君 | 伊達輝宗 → 伊達政宗 |
居城 | 白石城(宮城県) |
家紋 | 片倉輪違い紋 |
📜 生涯と功績
■ 政宗の傅役として
10歳年上だった景綱は、幼少の政宗の「傅役(教育係)」に任じられます。政宗の人格形成に深く関わり、生涯にわたる主従関係の礎となりました。
■ 合戦の名参謀
**摺上原の戦い(1589年)**など、多くの戦に従軍。戦術と兵站を巧みに操り、政宗の戦いを後方から支える“影の軍師”として重きをなしました。
■ 白石城主へ
1602年、関ヶ原の戦後に政宗から3万石を与えられ、白石城主となります。これは徳川幕府からも正式に認められた異例の栄転であり、伊達家の南方防衛の要でした。
■ 天下人も認めた才覚
豊臣秀吉や徳川家康も、景綱の才を高く評価。秀吉からは「5万石で家臣に」と直々のスカウトも受けましたが、景綱はこれを辞退し、政宗への忠義を貫きました。
🧩 小ネタ・逸話集
🔪「右目をえぐった」伝説
政宗の失明した右目が飛び出して見苦しいと嘆いた際、景綱が小刀でその目をえぐったという壮絶な逸話があります(創作説が濃厚ですが、忠義の象徴として語られます)。
💌 我が子を殺そうとした話
景綱は「主君より先に子を持つのは不忠」として、生まれてくる子が男子なら殺すと妻に告げたそうです。政宗はこれを止める手紙を送り、命が助かったとか。
👹「鬼小十郎」の異名
戦場での胆力と冷静さから、味方からも敵からも「鬼小十郎」と畏れられました。
🧭 名言・決断の場面
「夏の蠅はうるそうござる。二度三度と追うても、いよいよ増してまいるので、今敵対すること、御運の末か」
これは、豊臣秀吉の小田原征伐に伊達家がどう対応するか迷ったときの景綱の進言。
秀吉の圧倒的な勢力を「夏の蠅」に例えて政宗に恭順を勧めた名場面です。
🏯 子孫の活躍と遺産
- 息子の**片倉重長(2代目小十郎)**は、大坂の陣で千姫を救出。
- 白石城は代々片倉家が守り続け、幕末まで続いた名家臣の家系です。
- 現在、白石市では「鬼小十郎まつり」が毎年開催され、景綱の名が今も親しまれています。
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🔍 総まとめ:片倉景綱とは?
- 伊達政宗の右目として戦と政を支えた名参謀
- 忠義に生きた理想の家臣像
- 戦国時代を生き抜いた“盾と知恵”の象徴
✨ 最後にひとこと
片倉小十郎景綱の忠義と才覚は、主君・政宗を輝かせる陰の力であり、まさに「影の名将」。
華やかな武将伝に隠れがちですが、その真摯な姿勢は現代の私たちにも通じる信頼・誠実・支え合いの美学を教えてくれます。
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