
主君を討ち、家を興し、最上家の闇に消えた智勇の将
■ 基本情報
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 里見 民部(さとみ みんぶ) ※官途名。「民部少輔」とも称す |
実名 | 不詳(諱は「義正」「義章」「義満」など諸説あり) |
生没年 | 不詳~慶長19年(1614年)没 |
出身 | 出羽国(現・山形県上山市周辺) |
主君 | 最上義光(もがみ よしあき) |
父 | 里見義近(よしちか) |
所属 | 最上氏家臣(のち山形藩家老格) |
居城 | 上山城 → 長崎城(山形県上山市) |
■ 人物概要
里見民部は、安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した最上氏の重臣。
その生涯は「下克上・忠義・謀略」が入り混じる、まさに戦国乱世を象徴するようなものでした。
■ 出自と主君討伐 ― 戦国らしい“下克上”の幕開け
民部は、上山城主・里見満兼(さとみ みつかね)に仕える家臣の家に生まれました。
父・里見義近も上山の重臣であり、兄弟一族で満兼を支えていました。
しかし、天正8年(1580年)ごろ、最上義光の調略を受け、民部は父と共に主君・満兼、さらに異母兄・内蔵助を討ち取ります。
この「主君殺し」「兄殺し」の凄まじい事件によって、里見一族は最上氏側に転じ、民部は上山城を任される身となりました。
まさに典型的な「戦国の下克上」。
しかし、最上義光はこの裏切りを高く評価し、民部を重用します。
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■ 慶長出羽合戦での武功 ― 500人で4,000の上杉軍を撃退!
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの裏で東北地方でも戦火が上がりました。
それが「慶長出羽合戦」。上杉景勝の軍勢(約4,000)が最上領に侵攻します。
このとき、上山城を守っていたのが里見民部。
彼はわずか500人の兵で籠城するも、敵を迎え撃つどころか、自ら城を打って出て奇襲を敢行。
援軍の草刈志摩と連携し、上杉軍を撃退したと伝えられています。
この戦いは最上家中でも大いに称賛され、民部の名声は一気に高まりました。
戦後、義光はその功績を称え、民部を**長崎城主(1万7千石)**に任じます。

■ 栄光から暗転 ― 最上家のお家騒動に巻き込まれる
しかし、民部の栄光は長く続きませんでした。
主君・最上義光とその嫡男・義康(よしやす)の間に亀裂が生じ、家中は混乱します。
この時期、民部は義康に近い立場にありながら、双方に讒言(ざんげん)を繰り返したとも言われています。
結果的に義康は廃嫡・謀殺され(慶長8年・1603年頃)、最上家中は大混乱。
この事件は後に「最上騒動」と呼ばれ、民部はその中心人物の一人と見なされました。
■ 逃亡と最期 ― 波乱の人生の幕引き
義康死後、民部は一族と共に最上家を離れ、加賀国(前田家)へ逃亡します。
しかし、義光の命により引き渡され、慶長19年(1614年)に一族23名と共に切腹。
その死には、「処刑説」「謀殺説」「護送中殺害説」など諸説があり、真相は定かではありません。
■ 小ネタ・逸話集
- 🏯 主君と兄を討って出世
民部は“出世のために主君を討つ”という典型的な下克上型武将。戦国ドラマでも屈指の劇的エピソードです。 - ⚔️ 500 vs 4000の戦い
上杉勢との戦で、圧倒的劣勢を覆す奇襲戦術を展開。これは後世、**「上山の奇襲戦」**として伝えられ、最上家中でも語り草になりました。 - 🩸 最上義光の遺言伝説
最上義光が死に際に「里見一族、皆殺しにせよ」と命じたという伝承が残るほど、両者の関係は修復不可能なものだったとされます。 - 👁 里見元勝の復讐伝説
一族の中で唯一生き残ったとされる里見元勝が、後に義光家臣の暗殺を画策したという「復讐譚」も伝わります。
■ まとめ
里見民部は、戦国末期の混乱期において、
「忠臣」とも「謀臣」とも評される、極めてドラマチックな存在でした。
主君殺しからの出世、勇猛な戦功、そしてお家騒動での失脚――
その人生は、まさに“光と闇を併せ持つ戦国武将”の典型です。
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