-683x1024.png)
楯岡満茂の生涯と、秋田に残した功績
基本情報・人物概要
項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 楯岡 満茂(たておか みつしげ) |
通称・別名 | 後に赤尾津満茂(あこうづ みつしげ)・本城満茂(ほんじょう みつしげ) |
官位・称号 | 豊前守(ぶぜんのかみ) |
生没年 | 弘治2年(1556年)生〜寛永16年1月21日(1639年2月23日)没(享年84歳) |
主君 | 最上義光 → 最上家親 → 最上義俊 → (最上改易後)酒井忠世 |
出自 | 最上氏の庶流・楯岡氏当主 |
居城 | 楯岡城 → 湯沢城 → 赤尾津城 → 本荘城 |
墓所 | 群馬県前橋市・長昌寺 |
生涯・活躍の流れ
1. 最上家の一族として出羽国に立つ
楯岡満茂は、出羽国楯岡城(現在の山形県村山市付近)を本拠とした最上氏の庶流・楯岡氏の当主として生まれました。
若い頃から最上義光に仕え、その信頼の厚さから家中でも重きをなす存在となります。
-1.webp)
2. 小野寺氏との戦い
天正年間、出羽国の有力勢力であった小野寺義道が最上領に侵攻した際、満茂は最上義康らと共に**有野峠の戦い(1586年)**で小野寺軍を撃退しました。
この戦いでの功績が認められ、最上家中での地位を大きく高めます。

3. 湯沢城主から赤尾津へ
1595年、最上軍の総大将として仙北地方に出陣し、湯沢城を攻略・奪取。
以後、湯沢城主となり「湯沢満茂」とも呼ばれるようになります。
1603年には由利郡に転封され、赤尾津城に入り「赤尾津満茂」と改名しました。
4. 本荘城の築城
1612年、由利郡尾崎(現・秋田県由利本荘市)に本荘城を築き、居城を移します。
以降は「本城豊前守満茂」と名乗り、城下町の整備・治水・開発に尽力しました。
この本荘城は、後に由利地方の中心として栄えることになります。
5. 最上家改易と晩年
1622年、主君・最上義俊の代に最上家が改易されると、満茂も所領を失いました。
しかし罪には問われず、幕府の命で前橋藩主・酒井忠世のもとに預けられます。
その後赦され、酒井家の客分として1200石を与えられ、静かな晩年を送りました。
1639年に84歳で没し、群馬県前橋市の長昌寺に葬られています。
-683x1024.png)
楯岡満茂の功績と人物像
- 最上家中随一の重臣
満茂の知行は4万5千石に達し、家中でも最高の禄高を誇る実力者でした。
その地位は、もはや「大名格」に近い存在といえます。 - 領地経営の手腕
湯沢・由利などの豊かな地域を巧みに治め、農業・交易・金山の発展にも寄与しました。
特に本荘城の築城は、後の由利本荘の発展の礎とされています。 - 智謀に優れた武将
小野寺義道と八柏道為の仲を分断させたという逸話が残るなど、策略家としての一面も見られます。
戦場での勇だけでなく、冷静な判断力と政治的センスにも長けていた人物でした。
小ネタ・逸話集
- 🏯 名字を三度変えた男
楯岡 → 湯沢 → 赤尾津 → 本城と、居城の移動に伴って名字を次々に変えた武将。
これは、領地に根付くための地元重視の姿勢ともいわれます。 - ⚔️ 疑心暗鬼を利用した策略家
小野寺義道と家臣・八柏道為の不和を利用し、内部分裂を誘発したという話が伝わります。
この計略により小野寺軍は崩壊し、最上家は出羽南部の支配を確立しました。 - ⛩️ 墓が秋田ではなく群馬にある理由
最上氏改易後、酒井忠世の預かりとなった縁で群馬・前橋に移住。
そのため、今も前橋市の長昌寺に満茂の墓が残っています。 - 🎮 現代では“ゲーム登場武将”
『信長の野望』シリーズなどにも登場。
家中随一の実力者として高い統率値を持つ武将として描かれています。
まとめ
楯岡満茂は、戦国時代から江戸初期にかけて最上義光の右腕として領国経営を支えた名将です。
彼は武勇・智略・政治力のすべてを兼ね備え、
領地移封のたびにその地を発展させた“地方経営の名人”とも言える存在でした。
最上家が滅んだ後も、酒井家のもとで静かに生涯を全うした姿は、
まさに「智将・楯岡満茂」の人生の締めくくりにふさわしいものです。
コメントを残す