後光明天皇(ごこうみょうてんのう)

後光明天皇(ごこうみょうてんのう)

幕府に抗した若き天皇の誇り(第110代)

🧬 基本情報

項目内容
諱(いみな)紹仁(つぐひと)親王
在位期間1643年11月10日 ~ 1654年10月30日
生没年1633年4月20日 ~ 1654年10月30日(享年21歳)
後水尾天皇(第108代)
冷泉光子(藤原光広の娘)
養母東福門院和子(徳川秀忠の娘)
皇統持明院統(北朝系)
陵墓月輪陵(京都市東山区・泉涌寺内)

寛永20年(1643年)、実の姉である第109代明正天皇から譲位を受け、11歳という若さで即位。明正天皇が女性天皇であったため、男子による皇統の安定的な継続を望んだ幕府の意向が強く働いたとされています。

しかし、その治世は長くは続きませんでした。在位わずか11年、承応3年(1654年)に痘瘡(天然痘)のため、21歳という若さで崩御してしまいます。あまりに突然の死であったため、後には「毒殺説」が囁かれることもありましたが、確たる証拠はありません。彼の崩御以降、歴代天皇の葬儀は火葬から土葬へと改められたと言われています。

崩御時にはまだ幼い弟の高貴宮(後の霊元天皇)を猶子(養子)に迎えていましたが、幼少であったため、一時的に弟の後西天皇が中継ぎとして即位しました。


学問を愛し、剛毅な反骨精神を示した天皇

後光明天皇の人物像を語る上で欠かせないのが、その学問への深い傾倒と、幕府に対する毅然とした態度です。

彼は幼い頃から儒学や漢学を深く学び、儒学者の藤原惺窩の功績を称え、その文集に勅序を与えた逸話は有名です。これは、庶民の書に天皇が序文を賜うという前例のないことであり、彼の学識と開放的な姿勢を示しています。

また、和歌の才にも恵まれていましたが、「朝廷の衰微は軟弱な文化に耽溺したためである」として、和歌や『源氏物語』といった書物を遠ざけたとも伝えられています。しかし、父である後水尾上皇の促しを受けて即座に10首を詠んだ逸話もあり、その才能は確かでした。

藤原 惺窩(ふじわら せいか)

彼の剛毅な性格を示すエピソードは数多く残されています。

  • 京都所司代への皮肉: 剣術を好んでいましたが、京都所司代の板倉重宗に諫められた際には、「武士の切腹を見たことがない。南殿に壇を築いて切腹せよ」と返し、重宗を閉口させたと言います。
  • 三種の神器と仏舎利: 仏教嫌いであったとされ、開けてはならないとされていた三種の神器の唐櫃を開け、中から仏舎利が出てきた際には「怪しい仏舎利め」と言って庭に打ち捨てさせたと伝えられます。
  • 幕府の制約を回避: 父の後水尾上皇の病気見舞いの際、幕府から天皇の外出許可が必要と止められると、自身の住まいと父の住まいをつなぐ長い廊下を急造させ、「廊下を歩くのだから外出ではない」と言って見舞いに訪れたという逸話も残っています。

これらのエピソードは、幕府の干渉に対して天皇としての権威と自主性を保とうとする、彼の強い意志を表していると言えるでしょう。

板倉 重宗(いたくら しげむね)

「尊皇思想の先駆」としての評価

後光明天皇の治世は短かったものの、その行動は後世に大きな影響を与えました。彼は**「尊皇思想の先駆」とも評され、後の幕末における尊王攘夷運動**の精神的な先達と見なされることもあります。徳川幕府の支配が強固になる中で、あえて朝廷の尊厳を主張し、儀式や典礼の再興に努めた姿勢は、天皇の権威を回復しようとする強い意志の表れでした。

後光明天皇の陵墓は、京都市東山区今熊野泉山町にある泉涌寺内の**月輪陵(つきのわのみささぎ)**にあり、九重塔の形をしています。

若くして世を去ったにもかかわらず、その学識の深さと、幕府の統制に対し毅然とした態度を貫いた後光明天皇。彼の存在は、江戸時代の朝廷が単なる形式的な存在ではなく、内に秘めたる強い精神を持っていたことを今に伝えています。


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